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ぺたり、ぺたり。

冷たい、つめたい床の感触。




ほんの少し前までは感じることのなかったそれに身を震わせて、わたしは一歩一歩そこを歩いていく。




――ここは、ドコ?




分からない。分からないままに足はぺたぺたという音を残響させて動き続ける。




なんて、昏くて――冷たい、トコロ。




先の見えない暗闇と、まるで生物の吐息を吐きかけられているかのような気持ちの悪い生暖かさ。

近頃はもう春の暖かさを感じられていたというのに、一足飛びに夏になってしまったかのようなその蒸し暑さは、まるで・・・あぁ、そうだ。まるであの時のよう。

思い出す。思い出して・・・暑いはずなのに背筋が震える。




ぺたり、べちゃ・・・




冷たい床と、粘りつくような、もう、冷たくなってしまった、感触。

ほんの少し前までは感じなくてすんでいたそれは――間違えようもなく。

「あ・・・あぁ、あ・・・」

叫びにならない。悲鳴にもならない。

ただ、意味のないうめきをもらして、わたしの瞳はその足元の惨状を映し出していた――













『矛盾感覚』
   /I'm cry,I'm laugh...




                    /1




3月25日。

意味があるのかないのか定かではないような長い諸注意をふんだんに盛り込んだ、終業式と言う名の儀式が讃美歌をもってようやくの終わりを告げ、学内に設けられた聖堂に安堵にも似た空気が漂っていた。

1人、また1人と聖堂から自分の戻るべき寄宿舎に向かって歩き出していく。

これから、ほんの少しの間とはいえ休みを迎えるためだろう。心なしか彼女たちの足取りは軽い。

聖堂ではいまだに若干の人々が神に祈りをささげ、自身の信仰を示している中、わたしは聖堂の中にいまだに残っていた。

とはいえわたしが信心深いということではない。だからそれを証明するかのように神に祈りをささげることもなく、ただ1人の人影を求め、息を潜めて敬虔な生徒たちの間を縫うように歩いていた。

わたしが捜している人もまた信仰心に篤い生徒、というわけではないから、ここを捜していても見つかるという保障があるわけではなかったのだけれど――

「黒桐・・・さん?」

自分自身、頼りないと思わざるをえないようなか細い声で、わたしは聖堂を後にしようとする背中を呼び止めた。

「ん?あ、藤乃。どうしたの?そんな深刻そうな顔して」

彼女――捜し人であった黒桐鮮花はわたしに似た黒く長い髪をなびかせて、こちらを振り返ると不思議そうに小首をかしげた。

黒いシスターのような制服にカラスの羽のような黒い髪が映える。

わたしはどうなんだろう・・・?と埒もないことに思考が傾きそうになって、自身に向けてコホンと咳払いをすると改めて鮮花に瞳を向けた。

彼女は先ほどまでと寸分のズレもなく、不思議そうに小首をかしげたままでわたしを見返してきていて、わたしはそんな鮮花に気圧されるようにコクン、と出てもいないつばを飲み込んでから口を開いた。




                    ◇




――そうとおくもないむかし。

じっとりと暑い、気持ちの悪い夏の日。

わたしには、イタミがなかった――




                    ◇




ぼぅっと空に浮かぶ雲を見つめていた。

この雲はどこから来て、どこへ行くんだろう?なんて、そんな哲学的なことを考えていたらサマになっていたかもしれないけど、あいにく僕はそんな命題なんかに用はない。

「・・・暇そうだな、黒桐」

「そうですね。仕事がありませんから」

自分こそ暇そうに机にひじをついていたこの事務所の主をちらりと横目で確認して、僕はそれなりの皮肉を言葉に乗せて飽きもせずに雲を見上げていた。

雲はいい――明日食べていくための給料のことを考えなくていいんだから。

はぁ、と自分の考えに嘆息する。

やっぱり僕には哲学やら詩的なことやら・・・とにかく縁がないらしい。

ついこの間床屋に行って幾分かはさっぱりとした自分の頭を何とはなしになでつけながら、ぼぅっと空を見つめ続ける。

「幹也くん、それはひどいな。会話は潤いよ?人間関係の潤滑油。人と人は会話によって円満な関係を成立させるっていうのに・・・幹也くんは私のことが嫌いなのね」

よよよ・・・とキモチ悪いくらい白々しい言葉と演技に、僕は内心あきれ返ってようやく雲から目をそらした。

事務所の中に視線を戻すと閑散とした事務所と飾り気のない机。

そして、この事務所の主である蒼崎橙子がメガネをかけて、しなを作っていた。

「・・・・・・何やってんですか?」

そのあまりの似合わなさ――橙子さんがどういう人か知らなかったのなら、似合っていたと思えたかもしれないけど――に笑うことを通り越してあきれ果ててしまって、思わずため息を吐き出してしまった。

「あぁ、いやまぁ、それはさておきだ」

コホンと咳ばらいをしてから、橙子さんはメガネをはずしてそんなことを言う。

その頬がほんの少し赤いところを見るとさすがの橙子さんとしても恥ずかしかったらしい。

「・・・暇だな」

「暇ですね」

結局それしか言うことがないんだろう。

何となく居心地悪そうにぼやく橙子さんに、僕は間髪いれずに言葉を返す。

「いや、あのな黒桐。もうちょっとこう・・・何て言うんだ?インスピレーションを刺激するような話題はないのか?」

今の会話からそれを盛り上げろっていうのは、少なくとも僕にはムリなんだけど。

「はぁ・・・分かりました。じゃあ、仕事してください。いや、仕事はしなくてもいいですから給料ください」

「・・・・・・そこからどうやって会話を広げろというんだ。それにしてもお前、そんなに即物的な人間だったか?」

・・・給料が出ないことを不服に思うのは即物的とは言えないと思う。

そんな僕の不服そうな視線にも橙子さんは動じる様子なく、手にしたタバコをもてあそんでいる。

「だいたいだな、やる気――と言うか、できるのならとっくに仕事に手をつけている。創造、という行為は考えるよりも難しいものさ」

ほおづえをついたまま片手でタバコをもてあそんで、橙子さんはそう言って軽く肩をすくめて見せた。

なんと言うか、変なところで器用な人だと思う。

それにしても橙子さんの言いようはつまり、気が乗らないから仕事をしないということじゃなかろうか?

まぁ、こういう人だと分かった現在でもここで仕事をしようとしている僕に言えることなんてないのだろうけれど。

ほとんどあきらめの心境でため息を吐き出す。

「なんだか失礼なことを考えているような気がするのだが?」

「気のせいじゃないですよ。ええ。だいたい話の相手が欲しいなら僕じゃなくて式でもいいじゃないですか」

僕の言葉に不機嫌そうに眉をひそめながら、橙子さんはあいつじゃダメだ、とため息交じりに言葉を吐き出した。

「あいつは“創るモノ”と言うよりも“壊すモノ”だからな。あのテの話以外で式と話をしたところでたいした刺激などにはならんよ」

あきらめの色をにじませて、橙子さんは机にだらしなく突っ伏した。

結局手にしたタバコは吸わないままで机の上に放り投げてしまったらしい。

橙子さんはけだるそうに机に突っ伏したまま、ボーっとしている。

これはまぁ、多分世間様一般で言うところのつまりスランプってヤツなんじゃなかろうか、と僕は思う。

橙子さんみたいな人がそんなモノになるかどうか、はなはだ疑問ではあるけれど、それならこの珍しいくらいにだれた橙子さんの姿にも一応の納得はいく。

時計を見ると――式は今ごろお目覚めの時間、と言ったところだろうか?暇だし、給料も出ないし、ここを早退して式に会いに行くのもそう悪い話じゃないかもしれない。

ピリリリリ・・・

そんなことを考えていると、僕の耳に機械的な電話の着信音が届いてきた。

机に突っ伏しっぱなしで電話に出る気はさらさらなさそうな橙子さんをみて、軽く息をついてから僕はその電話をとった。











                    /2




アーネンエルベの名を持つその喫茶店に足を踏み入れたのは実を言うと去年のあの夏以来だった。

どういう縁なのか去年と同じ喫茶店の、去年と同じ一番奥のテーブルで、去年と同じ礼園の制服姿で、去年と同じように人を待っている。

あの時、持っていたモノ。

あの時、持っていなかったモノ。

あの時、失ったモノ。

あの時、手に入れたモノ。

あの時――犯してしまった、罪。

わたしが、鮮花にお兄さんに会わせて欲しいと頼んだのは――もう一度先輩に会いたかったから。

あの時は捜してもらえなかったあの、名前も知らない先輩ともう1度会いたかったから。

なんてことだろう?あの時、もう会いたくないと一方的に告げて別れてしまったというのに。

それはわたしのわがまま。

あんなことがあって、わたしは罪を背負ってしまって、それを誰に懺悔することも出来なくて、それは誰が罰をもたらしてくれるものでもなくて――

わたしは、いまだにあの夏から歩き出すことはできていなかった。

だから、きっと。

あんな怖い夢の中で、わたしはあの暖かな先輩を求めてしまっていたのだと、思う。

何か言いたいことがあるわけでもない、ただ、会いたかった。

先輩は、わたしのことなんておぼえていないだろう。

あの夏の日に出会った時も、昔、ケガをしていた女の子のことなんて覚えていなかったのだから。

でも、それも仕方ないと思う。

だって、きっと先輩からしてみれば、それは特別でもなんでもない、なんてことのない優しさなのだろうから。

だから、わたしは先輩に会って、浅上藤乃にとって、暖かな春の日差しのようなその笑顔をただ一目だけでも見たかった。それだけで、十分。

そうすればきっと、わたしはほんの少しだけ前に進める。

はぁ・・・と肺の中の空気をしぼり尽くすように息を吐き出す。

ただ、それだけのことで、今ではもう、息が、苦しい。

「・・・遅いわね」

そんなわたしの隣に座って、鮮花はぽそり、と誰にともなく――実際、彼女は自分自身に向かって言ったのだろうけれど――不機嫌そうに言葉を紡いだ。

その顔がなんだかもらえるはずのプレゼントを心待ちにしている小さな女の子のような純粋なもののように思えて、わたしは微笑ましくて思わず笑ってしまった。

「あ、その・・・ごめんなさい」

ジロリ、と鋭い視線を向けられて、わたしは口に手を当てて取り繕うように改めて笑みを浮かべた。

「――はぁ。ううん。私の方こそごめん。まったく、幹也ったら何してるのかしら?」

出来の悪い兄で困ってしまうわ、と鮮花はやっぱり不機嫌そうにだけどどこか嬉しそうに微笑を浮かべた。

わたしは、鮮花のこういうところが嫌いじゃない。

カラン、カランっ

ドアに備え付けられたベルが、いささかいきおいよく鳴り響く。

ドアを開けたのは男の人。

走ってきたんだろう。軽く息をきらせながら、その人は店内をぐるりと見回して――

「あ――」

その呟きが、自然、口から零れ落ちた。

だって、そう、それは、とても意外なことで。

だって、それは、そう、会いたかった人で。

がたん、と音がした。

音のした方に目を向けると、席から立ち上がった鮮花が喜びを押し殺したような微妙な表情でその人を見ていた。

「兄さんっ」

店内、ということを考慮してか抑え気味の声で鮮花はそう言った。

・・・兄さん?

わたしが戸惑っている間にその人は鮮花と――わたしを見つけて驚いたように目を見開いた。

その人はわたしたちのところまで来ると、ほんの少しなんと言うべきか戸惑った様子を見せてから、結局「お待たせ」とごく当たり前の口調であの時から変わらない笑顔を浮かべた。




                    ◇




一瞬、頭の中が真っ白になった。

今思えば、それはそんな驚くようなことでもなかったのかもしれないけれど、その時はあまりの驚きにしばらくなんて言っていいのか分からなかったくらいだ。

だって、それは仕方ないと思う。

もう会うこともないと思っていた彼女――浅上藤乃に、こんな場所で会うことになるなんて誰が想像できただろう?

でも・・・あぁ、そうか。

僕と同じように、呆然とした表情でこちらを見つめてくる藤乃ちゃんに苦笑混じりの笑顔を向けて、言葉をかける。

――お待たせ、と。

だって、これは、多分。

思えば、あの夏の日にすっぽかしてしまった待ち合わせの約束だったのだから。











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しばしの雑談と早めの昼食の後、喫茶店を出ると白い太陽の輝きが痛いくらいだった。

「それじゃあ私はこれで・・・」と言って去っていく鮮花の背中を見つめながら、わたしはどうすればいいのか分からずにただ立ち尽くしていた。

さっきから、そう。

だって、こんなの考えてなかった。

まさか、鮮花のお兄さんが先輩だった、なんて。

先輩と会えたらどんな話をしよう、とか、そんなことをいろいろ考えていたのにそんなことは頭からキレイに抜け落ちてしまった。

「えぇと・・・浅上、藤乃ちゃん?」

先輩はどこか戸惑ったように言葉を紡いだ。

「は・・・はいっ!」

わたしは、自分でも驚くくらいに緊張してて、声も思わず高くなってしまう。

でも、先輩はそんなわたしに穏やかな笑顔を向けてくれた。

「え、と・・・どう言っていいのか分からないけど、久しぶり。元気だったかな?」

とても穏やかで、とてもやわらかで。

本当、この、春の日差しのように暖かな笑顔。

その笑顔を見るだけで胸が締め付けられるようで・・・とても、嬉しい。

「――はい。おかげさまで」

緊張とか、驚きとか、不安とか、そんなものをすべて流していくようなその笑顔を見て、わたしもようやく微笑むことができた。

先輩は「そうか、それはよかった」って、やけに神妙な面持ちでうんうんと頷いて。

そんな仕草に、わたしは思わず笑みをもらしてしまう。

あぁ、わたしって本当、ウソツキだ。

先輩の優しい笑顔を、遠くからでも見ることができたのならそれだけで十分、なんて思っていたのに――今はもう、それだけじゃ足りないんだから。

雪が、暖かな春の日差しに溶けていくように。

わたしの中に凍り付いていた罪の意識が、苦しみが、悪夢が、ゆっくり、ゆっくりと溶けて、流れていく。

それは、けしてわたしの罪が消え去ってしまうなんてことじゃ、ないけれど。

こうしていたら、わたしは――浅上藤乃はまだここにいていいんだって、そう思えるから。

「藤乃ちゃん?」

先輩がどこか驚いたような表情で、不思議そうにわたしを見る。

どうしてそんな驚いた顔をしているんだろう?って思って・・・

頬を流れる冷たい感触にいつのまにか涙が流れていることに気づいた。

じっとりと気持ちの悪いあの夏の暑さの中では感じることのできなかった涙の冷たさと心地よさに、わたしは小さく笑みを浮かべる。

「ちょ、ふ、藤乃ちゃん!?どうしたの?何か変なこと言ったかな?えぇと――」

はっと我にかえった先輩が慌てふためくのが――不謹慎だけれど――なんだかおかしくて、わたしは笑みを深くして、目元をぬぐう。

「そういえば、まだ、自己紹介もしていなかったんですよね?」

何事もなかったように、にっこりと微笑む。

その微笑で落ち着きを取り戻してくれたのか、先輩は「・・・そういえば、そうだね」と小さく苦笑した。

「わたしは・・・浅上藤乃です」

「僕は、黒桐幹也。改めてよろしく。藤乃ちゃん」

差し出された手。

おそるおそる触れたその手は暖かくて。とても、とても暖かくて。

にこり、と微笑みあう。

楽しくて、嬉しくて、だけど、涙がこぼれてしまって。

「――はい。幹也さん」

そんな、矛盾した感覚を胸に、わたしは歩き出す。


























「そういえば藤乃ちゃんの探している人って誰なんだい?鮮花の話だと中学の時の先輩らしいけど」

僕が知っている人なのかな?なんてことを言って、幹也さんは小首をかしげる。

その仕草がなんだか微笑ましくて、わたしはまた微笑してしまう。

「はい、そうなんです。でもわたし、その人の名前も、どこの学校の生徒かも分かっていなかったんですよ。ただ一度、わたしがケガをしてしまった時に――」

春の日差しは、とても、暖かかった。





-END-




‐あとがき‐

と、いうわけでらっきょ初SSですっ!!(おぉ

っは〜、正直、ようやく書き上げられたか〜って感じですねぇ。

実はこのSS7割方まで・・・完成を見ると8割方までは書けてたんですけどねー。

最後の方をどうするか?というか、当初の予定だと、まだまだ長くなる可能性すら孕んでました。(苦笑

まぁ、結局、これ以上だらだらと長くしてもしょうがないってか終わらない。

と、言うことでこんな形になったんですが、個人的にこのSS、満足してます。(珍しい

もしかしたら式も出してたかもしれなかったんですよねー。あ、そういや式出てねぇや。(ヲイ

つか、らっきょでは誰がなんていおうが藤乃がさいこーです。異議は認めません。(マテ

結局、藤乃の力やらには触れませんでしたが、あの力も非常にいい感じですしね〜。

ちなみにこの話、らっきょ本編の痛覚残留から当然あとの春ですね。

って言うか、思いっきり日付かいてるじゃんよ。俺。(苦笑

これから空の境界SSを書くことがあるのかないのか分かりませんが書いてて面白かったですー。

んー、もしかしたらまたらっきょSSでもお会いしませう。(ぉ(5/10)



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